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ぼくらが街に出る理由 #4 「炎と人と神々と」

松澤タスク(ぼくらが街に出る理由)

僕は松澤タスク。

ここ大分で生まれ、今日までこの街で暮らし続けてきた22歳の大学生だ。今年、就職でこの街を離れるので、大分で過ごすのはあと僅かである。

急に登場した僕は、冨高優作とフリーペーパー「ぼくらが街に出る理由」を作っているひとりだ。今回は冨高君の代わりに、僕、松澤タスクが、面白いお祭りに言ってきた話をしたい。しばしのお付き合いを。

 

先日、日頃暮らしている「街」を離れ、ひとり国東市を訪れた。

ある「奇祭」に参加するためだ。

その祭の名は、「ケベス祭」。国東市国見町櫛来(くしく)の 「櫛来社(岩倉八幡社)」で毎年10月14日に行われる、国の選択無形民俗文化財にも選択された、火を巡る祭礼行事だ。

「ケベス祭」が奇祭と呼ばれるのは、この祭に関する詳細な起源や由来が、一切分かっていないからだ。     

「ケベス」とは、一体何者で、どこからやって来るのか。

僕は大きな好奇心に強く突き動かされていた。

 

 


 

 

「ケベス祭」体験報告を始める前に、まずはこの祭における主要な2つのキーファクター、「ケベス」と「炎」について、触れておきたい。

まず「ケベス」とは、 祭の当日にだけ人々の前に姿を見せる「来訪神」(1)、即ちこの祭のメインロールだ。「ケベス」は、修行僧のような白装束に木製の仮面をまとい、長い棒と扇子を持った姿をしている。

「ケベス」の役は、祭へ奉仕する当番地区の人々、「当番(トウバ)」の中から毎年一人が選ばれる。

そして2つ目のキーファクター、「炎」。「ケベス祭」とは、ざっくり説明すると、神社境内で燃えさかるシダの山の炎を巡り、「ケベス」と白装束に差又を持った「当場」の人々が攻防を繰り広げ、最後にはそのくべられた炎を「当場」が参拝者へ振りまき、その火の粉を浴びた者は無病息災の御利益を受ける、という祭だ。 

「ケベス祭」はその特異性から、日本の奇祭の一つとして広く知られており、祭当日は九州・中国地方からは勿論、関西や関東、欧米からも参拝者が沢山訪れ、この静かな海辺の社は大きな賑わいを見せる。

この日は地元ローカル局のみならず、日本全国から取材に訪れており、多数のTVクルーや、まるでハリウッド映画の撮影に使うような、巨大なクレーンカメラまでもが設置された境内の様子は、これから始まる祭への期待を否が上でも高めさせた。

 

当日は午後6時頃、ケベス役を含む「当場」の人々が全裸で海中まで浸かる禊を行い、その後1時間ほど境内で神事が執り行われた後、「当場」の人々、太鼓と鐘・笛を奏でる練楽(ネンガク)隊、神職、そして神職に「勝」の文字を背中になぞられ、木製の面と共に来訪神「ケベス」をその身に憑依させた人間が、順番に境内へと現れ、祭が始まる。

 

 


 

(1)来訪神とは、年に一度、季節の境等の節目に人々の世界へ外界から来訪し、豊穣や幸福をもたらすとされる神のこと。秋田県の「なまはげ」などもその一例。

 

 

禊~神事~祭までは約1~2時間ほどなのだが、その間参拝者は人が混み合う境内でベストポジションを確保するため、花見のショバ取りが如く、いわゆる「前入り」をする。そのため、実際の待ち時間はかなり長く、「ケベス」や「当場」たちが境内に現れるまで、参拝者らは「本当に始まるの…」と、思わず不安になるほどの時間を冷たい海風に震えながら、じっと堪え忍ぶ。

 

 

しかしだからこそ、満を持して「ケベス」が参拝者の前にその姿を見せた瞬間、人々の興奮と高揚は最大限にまで達し、燃えさかるシバシダの山による熱だけでない、人間の熱気が、境内の温度をより高いものにしていた。

 

 

そして祭直前の最終神事を経て、いよいよ祭の幕が上がると、境内は燃えさかる炎を守る数人の「当場」、練楽隊の調子に合わせ境内を時計回りに練り歩く「ケベス」と神職たち、そしてその様子を周囲から見守る参拝者、という構図になる。

多くの参拝者が、待ち焦がれた祭の舞台へ興奮した眼差しを向ける中、練楽隊らが境内を何周かした頃、「ケベス」はその足を止め、燃えさかるシダの山への突進を試みる。「当場」たちが守る炎をかき乱さんとするその姿は、共同体に御利益をもたらす福の神というよりも、どこか共同体の和を乱そうとする、荒々しい災いの神のようにも見えた。

 

 

僕自身、今回の祭は初参加だったが、事前に祭の流れ自体をある程度は把握していたため、この「当場」と「ケベス」のやりとりに関しては正直なところ、「形式的なもの」だとどこか軽く見ている部分があった。しかしながら、この両者の押し合いは、それぞれが持てる力の限りを用いて本気の攻防を行うものであり、そこに人々の妥協を見ることは一切無かった。

 

 

そして中でも僕が特に驚いたのが、小学校高学年~中学一年生ほどの少年が務める「当場」と、体格の良い大人の演じる「ケベス」が、互いに一切遠慮すること無く、強い海風に吹かれ大きく燃えさかる炎を背に、文字通り命がけの戦いを行う様子だ。この対決の際には、参拝者の中からも両者を応援する声援や歓声がひときわ大きくなったが、「当場」の少年の真剣な表情、そんな少年を本気で倒しにかかる「ケベス」、そして両者が本気で押し合っていることを示す砂を強く踏みしめる足袋の音に、僕の心と身体は、完全に神話の世界へとシンクロしていた。

 

 

「当場」と「ケベス」の両者が何度かの炎をめぐる攻防を繰り広げた後、遂に「当場」は「ケベス」による炎への突進を止めることなく、その侵入を許してしまう。そして「ケベス」が炎に飛び込んだのを皮切りに、「当場」たちは燃えるシダの山へ差又を刺し、燃え盛る炎の束を手に、参拝者の中へと勢いよく突入し、火の粉をばらまきながら境内を所狭しと駆け巡る。

この奇祭のもう一つの大きな見所、壮観で荒々しいクライマックスの幕が上がる瞬間、参拝者と舞台の間の見えない壁は消え去り、境内全体がひとつの大きな祭の舞台へと、その姿を変える。

そしてその刹那、僕たち参拝者はそれまでの「祭の傍観者」という受動的・客体的な立場から、「炎に追われ逃げ惑う人々」という、能動的な祭の参加主体へと、否応なくその転換を迫られる。

 

 

この「当場」が掲げる火の粉を浴びると、無病息災の御利益があると言われているのだが、いかんせん勢いよく燃え盛るシバの炎、とにかく「当場」が接近するだけでものすごく熱い。ましてそこに人々の熱気が加わり、舞台と客席の境界が消えた場内は、逃げ惑う参拝者の歓声と悲鳴、パチパチという炎の音が混ざり合い、さらにはあちこちで燃え落ちたシバがたき火のように燃えている、とてもカオスな空間だった。

 

 

そしてこれもまた実際に参加してみて分かったことなのだが、「当場」の方々は、人が密集する参拝席であろうが決して遠慮することは無く、燃え盛る炎を手に、人混みの中を所狭しと駆け巡る。ひとりでも多くの参拝客に、無病息災の御利益を届けるために。

 

 

大元のシバシダの山の炎が燃え尽きてなくなる頃、拝殿では来年の五穀豊凶が占われ、ケベス役の人間から「ケベス」が静かに去り、大団円のうちに祭の幕が下りる。 

祭が終了し、拝殿へ向かう参拝の列に並びながら、僕は初めて体験した「ケベス祭」に、人が集う「祭」そのもののダイナミクスに、大きく圧倒されていた。

そしてまた、詳細な起源や由来は不明なものの、太古から今日に至るまで、その姿を(恐らくは)ほぼ変えることなく、大分の東端の地で受け継がれてきた祭の姿に、その伝統を守り、真剣な姿勢で地域の文化と物語を紡ぎ続けている人たちに、僕は強い尊敬の念を抱かずにいられなかった。

祭が終わる頃に僕が少し涙ぐんでいたのはきっと、煙が目にしみたせいではないのだろう。

 

来訪神が現れる祭礼行事では、外から来る神を、他ならぬ共同体内部の者が演じ、その仮装した共同体の構成員に人々は神の姿を見出し、畏怖と感動の念を覚える。このような来訪神行事が全国各地で育まれた背景として、生活環境や言語、文化・風習の違う者同士の交流機会が少なく、閉じられた空間での繁栄と衰退を繰り返す中で、人々はきっと、その閉鎖的な空間を破壊し、停滞した集団を生まれ変わらせる何か、恐らくは変革そのものを、開かれた広い外の世界に期待していたのだと僕は考えている。

人々が共同体から離れた遠い彼方、海の向こうから、硬直したムラを更新する何かが来ると期待する中で、その願いが具体的な形として表出したのが、この祭における来訪神的存在「ケベス」であり、「ケベス祭」という来訪神を信仰する行事なのではないだろうか。

僕達の社会は、長い歴史の中で、村から街へとその生活規模を拡大してきたけれど、共同体も人間も、排他的で閉じた内輪の中だけでは生きていけない。

変化を恐れることなく、内と外、それは時に異なる世代や国、性別間への置換も可能かも知れないけれど、表裏一体な大きな繋がりの中で共存していくこと。

祭の炎が消え、漆黒の闇へ消えゆく境内を背に、凪いだ水面を眺めながら、そんな古代の人々の願いや期待を、今も残るこの来訪神行事の中に垣間見たような気がした。

 

この炎を巡る奇祭、「ケベス祭」は曜日に関係なく、毎年10月14日に国東市国見町櫛来の「櫛来社(岩倉八幡社)」にて開催される。祭では時に、身の危険を感じるほど火の粉を浴びることもあるため、足を運ばれる際には、燃えにくい素材や多少穴が空いてもよい服、フード付きのパーカーなど、その服装に十分注意して頂きたい (僕はお気に入りのデニムジャケットに小さいコゲ穴を開け、少し凹みました)。

最後に、この街へ長らく根を張り続けてきた僕も、遂に今年、就職でこの街を離れる。

大分で過ごす最後の1年間、僕は友人らと共にテイクフリーのZINE、『ぼくらが街に出る理由』を発行し続け、その中で新しい方々や場所との出会いを通じ、沢山の「街に出る理由」を僕自身の中に見出してきた。思えばそれも、古代から続く人間の欲動、「表裏一体な大きな繋がりの中で共存していくこと」を志向していたのかも知れない。

 

 


 

 

■『ぼくらが街に出る理由』編集部のようす■

(当記事の著者:後列、左から二番目) 

 

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