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「わからない」という大切なこと

岩尾晋作(カモシカ書店店主、「大分で会いましょう。」コーディネーター)

人間には記述できる情報と記述できない情報があって、その見分けは結構むずかしい。

例えば自転車。初めて自転車に乗る人が自転車の乗り方の説明書などをつぶさに読み込んだとしてもいきなり乗りこなすことはまずできないだろう。

自転車は左右の足で交互にペダルを踏めば進んでいき、その間左右に倒れないように自然とバランスをとるものなのだ、ということをどんなに丁寧に語られても、やってみなければその感覚はわからない。

 

記述できる情報と記述できない情報はくっきりと分かれているわけでもない。自転車でいうと、少しでも早く継続的にペダルを漕ぐ呼吸法や坂道における体の振り方などは、実践の前に知識として知っていることで、自分でそれらのコツをゼロから発見するよりもずっと早く上達することができるだろう。

 

何が言いたいのかというと、地域の魅力というのは実は、大部分は記述できない情報なのではないか、ということだ。

 

ある里山で何か作物を育てたり、家畜を育てたりしながら、四季の移ろいの中で近隣の人々や自然とのつながりの中で生きていくことの逞しさ、面白さ、美しさ、は話を聞いたときに想像できるような気はするのだが、そのような話をいつどこで聞いても、頭の中の情景は実はどれも同じようなもので、例えば国東の里山と野津の里山の違いを想い分けることは私にはほとんどできない。

それができるのは少なくともどちらかに住んだことのあるひとだけではないだろうか。

 

考えてみれば当たり前のことかもしれないが、それでも僕たちはかなり頻繁にどこかの土地の魅力を無理くりにでも見たり聞いたり知りたがる。世の中に旅番組、旅情報誌の類のなんと多いことだろうか。

 

「住まなくても情報としてわかるもの」に対して、「そこに住まわない限り絶対にわからないもの」のほうが圧倒的な分量を持つことを、僕たちは実は本能的に知っているのではないか。

知らない土地を旅先として想像しようとするときに、どうしてもシンボリックなものを求めてしまう心理に、つまり、ある土地が一目で「そこ」だとわかるようなものに安心し、象徴として充分耐えうるように水増ししてすらそれに縋ってしまうような我々の習性に、逆説的に僕たちは「わからないもの」がいかに世界を支配しているのかという真実を思い知らされているはずだ。

 

「わからないもの」、「語られないもの」は、わからないから、語られないからといって存在しないことには決してならない。それどころかこの世界に存在するほとんどのことは、風景であれ感情であれ、物体であれ関係性であれ、わからないもの、語る言葉が見つからないもの、として存在している。それらが持つこの「わからなさ」=非記述性に気づきすらしない場合も多いだろう。

 

僕が「大分で会いましょう。」というプロジェクトに可能性を感じるのは、「大分に会いましょう。」に、非記述性に対して自覚的に歩み寄るような性質があるからだ。

 

ある人物ともうひとりの人物が、大分で出会う。そこで食事をしたり、街歩きをしたり、現地の人に出会ったりする。もちろん見てもらいたいものは予めあるにはあるのだが、そこにどでかい看板をぶちあげるような目的には適さない。

知らないものをよく知っているように錯覚させるには、シンプルな文言と印象深い映像を反復して提示するのはマーケティングの基本中の基本だが、我々はそのように対象を取り扱わない。ただそこを旅人として味わい通り過ぎていくのだ。だからそこに行って何の意味があるのかは、率直に言って事前にはわからない。

 

僕は、この対象に下駄をはかせたりせずにダイレクトに向き合うこのプロジェクトが、好きだ。

ゲストの感情の移ろいに注視してほしいと思う。

そこに、言ってみれば未知の土地や人への敬意をかぎ取ることが常にできて、それこそが、それだけが、人が旅にでる根源的な理由なのだ。