OITA WINDOW 大分の窓

 
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岩尾晋作(カモシカ書店店主、「大分で会いましょう。」コーディネーター)

 「大分で会いましょう。」のおかげで、今年度は新しい大陸を発見したがごとくに大分県中を歩き回った。

 何かを知るというのは、自分がその事をどれだけ知らなかったかを知るということだろう。旅をすると、「世界は広い」とか「いろんな人がいるものだ」とかそういうことももちろん考えるけどそれはむしろ当たり前のことだ。

 せっかく頂いたこの機会に僕が改めて考えたいのは「誇りとは何だろうか?」ということだ。

 

 充実して過ごしている人には誇りがある。それは地域にも言えることで、僕が住む街が僕にとっても、街の他の人にとっても、誇り高いところだといいなといつも思っている。

 ではその誇りとは何なのか? そもそも言い表せるものなのかどうか何の保証もないが、少なくとも「誇りを持て」と言われて「はい、わかりました、持ちます」と応えられるものではないことは確かだ。

 僕自身を省みると誇れるものなんて何もないけど、いつか誇れるかもしれない、いつか誇りに思いたい、と思ってカモシカ書店を始めた、というふうには言えるかもしれない。このとき誰に対して誇れるのかというとやっぱりまずは自分自身なのだ。

 個人の「誇り」とは、自分自身に対して時間をかけて積み重ねた努力と信頼のこと、なのかもしれない。

 

 ところで努力には反作用があって、僕はそれがたまに気になる。「こうなりたい」と強く願いそれに向かって努力するときに、その願望のネガティブな面として「そうではない状態」を激しく否定しなければならないからだ。例えば筋トレを習慣にする人は、筋トレをさぼる自分を嫌悪する必要がある。

 このとき人間はなぜか他人を巻き込む習性があるように見えてならない。筋トレをさぼる自分をのみ否定すれば済む話なのに、そう稀でもなく、「もやし」や「ひょろひょろ」という言葉が持つニュアンスに見られるように、筋トレをしていないだろう他人を、ごくわずかにでも、見下すことはないだろうか?

 もちろん筋トレは例えに過ぎないので筋トレをする人を詰っているのでは決してない。むしろ僕も筋トレは好きだ。

 何でもいいから人が努力することを思い浮かべてみてほしい。勉強でもスポーツでも、仕事や収入や交友関係、地位や権力、家柄、暮らしている場所、全てそうだ。そもそもは自由で大きな夢を描いて世界を仰ぎ見た者が、後ろ足で陳腐な価値観をなぞってしまう習性が人間には確かにある。思考の内輪差、とでも言おうか。

 知を求めて古今東西万巻の書を繙いて得た教養の結果、他人を見下している、というのは人類の最も醜い悲劇のひとつだろう。

 

 話を戻すと、「誇り」とはまずは自分自身に誇れることだと書いたが、自分だけにしか誇れないのはどうも違う気がする、ということが言いたかったのだと思う。たぶん、自分ひとりでは完結しえないものなのではないだろうか。

 自分自身に対して時間をかけて積み重ねた努力と信頼。であると同時に、その努力と信頼が誰かの役に立っている、何かの一部である、と実感できる必要があるのだと思う。換言すると「自分が世界の一部を担っているのだ」という意識が必要なのだ。

 

 「星の王子さま」は作者サン・テグジュペリが大人の持つ違和感や矛盾を鋭くあぶり出し、しかしチャーミングに描き出した傑作だが、そのサン・テグジュペリは「個人は人類の道でしかない」と説いた。よりよい未来のための通り道として、一つのサンプルとして、人類に自分の小さな人生を捧げる。そういう意味だ。僕はこの言葉に出会ったとき、文化も宗教も関係なく、敬虔な気持ちになった。

 

 地球は球体である。どうやっても地表に中心はないのである。そして都市も、究極的には道でしかない。街も、村も。

 大分の話をすると、大分は大分であることを徹底することが一番誇り高い在り方だろう、と考えるようになった。大分以外の都市をどうこう批評したりもせず、田舎者だとかなんだとか言ってくる人の心を温泉で満たし、とり天の衣みたい包んで差し上げよう。そういう大分を、次の人類のために担っていこう。そうするうちに「誇り」になる。みんな知ってるとは思うけど。

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